ホモ・デウス

しばらくぶりにいわゆる話題の本を買った。ハラリ「ホモ・デウス」だ。前評判は聞いていた。まだ上巻の途中だが途中なりの心象を書いておく。ずいぶん前にフランシス・フクヤマが「人間の終わり」で警告を発していたバイオテクノロジーの問題も含まれているが、やはり主な課題は計算科学、いわゆるAI問題だろう。人間と対峙すらしないデータがすべてを超越していくとき、つまり(通常の人間にとって知能は意識の一部にすぎないが)データによって意識なき知能が課題をはるかに良く解決し調和をもたらすのであれば、人間は(少なくとも旧来の人間は)存在の意味を問われざるを得ない。原著は2015年の発行である。映画では2014年に「オートマタ」「トランセンデンス」が、2013年には「her」「コングレス未来学会議」がすでに出ていて、ハラリと並行して同じ問題を捉えている。

そこで我に返って思い出すのが「日本人は勉強しない」問題だ。周囲を見ると実際勉強していない。勉強というよりも技術の進歩や変化に対する追従に過ぎないが、そんな枝葉の知識技芸も仕入れていない。基礎教養については言うまでもない。勉強しないから外界の変化もわからないので切迫感もない。ありとあらゆる怨嗟が湧きあがるがそれは措いて、いわゆるインプットが足りない問題と捉えよう。はたしてアウトプットが十分なのかどうかが問われるわけだが、インプットとアウトプットの関係は反比例や和一定の関係ではないし、「どちらでもないムダ時間」というのもあるのでさらに面倒だ。ムダ時間はスラックと呼ばれ別に意味があったりもする。インプットに注目してごく近い周囲だけに尋ねたところ、職場での総活動時間のうちインプットにかける(少なくともアウトプットのない)時間のシェアは最大10%程度で、これを超過すれば周囲の目が気になるそうだ。自分の感覚とも合致する。しかし考えてみればまったく足りないように思う。昨今の状況では総活動時間の40-50%程度をインプットに使わないと追いつかないのではないか。そして先端に行くほどインプットとアウトプットの境界は曖昧になるだろう。

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